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河井寛次郎記念館
河井寛次郎記念館:大正~昭和期に活躍した陶工・河井寛次郎(1890-1966)の自宅兼工房だった建物を、寛次郎が暮らした当時そのままに公開している記念館。河井寛次郎は島根県安来に生まれ、陶芸を学び、後に京都市立陶磁器試験場にて勤務し主に釉薬の研究に励む。1920年に現在の地に住居と窯を得、結婚。京都・五条坂を拠点に創作活動に勤しんだ。1937年には自らの設計にて現在の記念館の建物である自宅を建築。美の拠点として多くの人々との交流も生まれる。その作品は陶芸のみならず、木彫や書など多岐にわたる。柳宗悦や濱田庄司らとともに「民藝運動」の中心的役割を担ったことでも知られる。
民藝運動の中心的役割を担った陶工・河井寛次郎。彼も五条に自宅件工房を構え、周辺の職人や作家と共に創作活動を行っていました。自宅は彼が暮らした当時のまま、現在は記念館として公開され、多くの人々が訪れる場所となっています。
河井寛次郎の孫であり、現在記念館の学芸員を務める鷺珠江さんに、寛次郎と清水・五条の地域の関係やご自身の思いを、お伺いしました。
身近にあった陶器と登り窯と共にある暮らし
インタビュアー(以下I)>
鷺さんご自身も長く五条坂の周辺で生活されてきたかと思いますが、何か思い出深いエピソードなどがあればお話頂けますでしょうか。
鷺 珠江さん(以下S)>
私は昭和32年生まれで、まだその頃は五条通には山科まで抜けるバイパスはできていませんでした。その後しばらくして工事が始まったかと思います。
懐かしい記憶としては、その頃は家(河井寛次郎記念館)の前の道を、陶器の職人さんがよく桟板(陶器を乗せる長い板)に陶器をのせて歩いてられる様子を見かけましたね。今はそういう景色は見ないので、陶器の町に住んでいる身としては、少し寂しいものがあります。
うちも登り窯を炊いていましたので、窯に火を入れる時期が近くなると、窯の薪として使う赤松の材木が沢山運ばれてきました。それが玄関のところにばーんと、積まれるんですよ。
私は窯焼き一回に使うのはその時積まれた分だけだと思っていたんですが、後で聞いたところそうではないそうで、一度に千二百束の材木を四百ずつ、三回に分けて運んでいたそうです。ばーんと積まれた材木を窯場に運んで、それがなくなったらまた連絡して積んでもらって…といった風にしていたそうです。
――I>
間近に窯が使われる様子をご覧になっていらっしゃったりはしていたのでしょうか。
――S>
火が入っていない時の窯は、子供にとってはええ遊び場だったんです。かくれんぼをしたり、あと陶器の破片とかがよく落ちているのを拾って宝物にしたり…。でも一旦窯に火が入ると、そこはガラリと聖域に変わってしまうんですよ。もう大人の時間になってしまう。子供たち…少なくとも河井の家では、女子供は窯に火が入るともうそこには近づきませんでしたね。
近づいても別に怒られはしなかったと思うんですが、子供心に「今はダメ」という判断がつくわけです。「窯を炊いてはる時は今は遊び場じゃあない」と。
ただ、真夜中でも窯では火を使うので、お布団に入っても、人のざわめきとか、火のパチパチと炊かれている様子を感じていましたね。
お祭りとは少し違うとは思うんですが…窯炊きの時は一種の高揚感を感じて過ごしていました。
――I>
やはり窯や陶器は身近な存在だったんですね。
――S>
今も五条通で開催されている陶器まつりも、昔は子供向けに、陶器でできたままごと用のお野菜とか果物を売っているところが結構あったんですよ。大根やったり、にんじんやったり、ほうれん草、あと魚や果物があったり。
どれも綺麗に色がつけられていて、店先にずらーっと並べられているんです。
それを、親から小銭をもらって買いに行くんですけど、これが結構高いんです(笑)当時で一個五十円くらいだったでしょうか。子供の小遣いだと一度に二個か三個買えるか、といった具合。
それをお店のかごに選んで入れるわけですが、今年はこれかなあれかなと悩みながらも、楽しかった覚えがあります。
昔はそういうお店が何軒もあったんですけど、今は全然ないんですよね…。
懐かしいけど、ちょっと寂しい思いがあったりします。
あとね、昔はこの辺にも「夜鳴きそば」の屋台が夜遅くなると来てたんですよ。このあたりは陶器の関係者とか、結構夜中まで仕事してる人とか起きてる人が多かったので、そういう人がどんぶり鉢を持って買いにいってました。
うちにも住み込みの若い書生さんがおられたので、夜中によく利用しました。私も時々一緒に食べましたが、夜中ということもあったのか、なんともいえず美味しかったですよ。
――I>
住み込みの方もおられたとは…当時は結構な大人数で生活されていらっしゃったのですか。
――S>
すごい人数で暮らしていましたよ。
母屋には、祖父母の河井(寛次郎)夫婦、その一人娘である母と父、そして私を含めて娘三人。
あとはお手伝いさんがおられました。といっても下働きというわけではなくて、京都の街中…洛中に、丹波とか丹後とかの郊外から結婚前のお嬢さんが行儀見習いということでやってらして、そこの家の奥様の家事を見習いつつ手伝いをするということがあったんですよ。うちにもそういうお姉さんが何人か、住み込みで来られていました。
陶器作りをする若い書生さんたちは、登り窯の横にあった長屋のような棟に住んでられました。そこには作業をする轆轤(ろくろ)場と、書生さんが寝起きする畳の部屋に二段ベッドみたいなものが備え付けてありましたね。
食事を一緒にとるのは河井関係者だけでも十人を超えていました。そこにお客さんが何人も加わる(笑)大所帯でした。大変だったとは思いますが、祖母や母が率先してお手伝いさんに助けて頂きながら、皆さんの食事やらもてなしやらをしていましたね。お客さんにも必ず一緒に飲み食いしてもらう家でしたので…。
――I>
それが毎日。
――S>
毎日でした(笑)
なので、あまり家族のプライバシーというものはなかったですね。
そこで私の父が後から離れを拵えたんです。風邪を引いたりしたら、母屋にはいられないのでこちらで過ごしていましたね。
小さいころはこちら(現在の記念館の建物)で暮らしていましたが、さすがに私を含めて子供が皆大きくなると手狭になってしまったので…この家から徒歩一分くらいの場所に京風の家を買って、そちらに引越したんです。でも食事はこちらで河井たちと一緒にとっていたので、行ったりきたりしていました。 河井が亡くなった後は祖母が一人になったので、またこちらに戻ったりもしていました。
鷺 珠江(さぎ・たまえ)
河井寛次郎の一人娘・須也子と河井博次の三女。昭和32年に京都市に生まれる。同志社大学文学部卒。現在は河井寛次郎記念館の学芸員として、祖父・河井寛次郎にかかわる展覧会企画のほか、出版・講演・資料保存などに従事する。
河井寛次郎と、京都・五条坂、町の人々を結び付けていた窯の火。
――I>
記念館の登り窯は、清水六兵衞先生のところから譲り受けたものとお伺いしています。
――S>
そうですね、確か五代様の頃だったと思います。
河井は京都生まれではなくて島根の生まれで、京都に来て陶磁器試験場を卒業後に、清水六兵衞先生(五代)のところで釉薬のお手伝いを二年くらいさせて頂いていたんですよね。
それがご縁になって、清水家が前に持っておられた登り窯を購入させて頂いたんです。
河井が五条に家を建てたのも、その窯があったからです。住居部分もその際に一緒に得ました。
幸いなことに当時、河井のことを支えてくださった資産家の山岡千太郎様(※)が借金の保証人になって下さるなどのご恩があったおかげで、三十歳で持ち窯を得ることができたんです。
※山岡千太郎(やまおか・せんたろう 1871-1943)
明治生まれ、大正~昭和期の実業家。1916年に第一線を退き、陶芸を志した折に河井寛次郎と知り合う。以後よき理解者・支援者として河井の活動を後押しした。山岡山泉(やまおか・さんせん)の名で自ら芸術活動も行い、雪舟の水墨画を積極的に模写し残している。
――I>
今の基準で考えても、その若さで持ち家に窯も手に入れたことは凄いことですよね。
――S>
そうですね。借金を払い終えたのもだいぶ後で、かなり長い時間をかけて、こつこつとお返ししていたようです。
――I>
寛次郎さんご自身は何か五条坂に居を構えたことについておっしゃっていたりはされていますか?
――S>
実際、「河井先生はなんで京都をお選びになったのですか?」と聞かれた時には、河井は「いや、この窯があったからです」と答えています。
京都の町が好きで、とかそういうものではなくて、やはり窯有りき、この登り窯を手に入れたことが理由だったんですね。
なので、あの窯を手に入れたことには河井自身、とても喜びを感じていました。
私は作り手ではないので細かいことはよくわからないのですが、やはり小さな窯より大きな窯の方が、ダイナミックで面白いようです。リスクも多くなる代わりに、思いがけないような、素晴らしい出来ばえの作品に出会えたようです。
また、あの大きな登り窯は、河井が一人で使っていたのではなく、多くの方々と共同で使っていました。それは京都の従来のやり方を踏襲したものですが、大勢の方と共同使用することで、月に一回ペースの高い頻度で窯を焚くことができました。
河井は窯の持ち主であると同時に使用者の一人ということですが、組合のような組織の形で、それぞれが自分の使うスペースに応じ経費を出し合うという合理的なシステムになっていました。
そのおかげで、仮に失敗してもすぐ翌月の窯でやり直せるというメリットがありました。
特に赤松の薪を使う自然の登り窯においては失敗することも多くて、全体の四割がうまくいけば御の字だそうなんです。展覧会が近いときなどに、あっ、失敗だ!となっても、作家たちはこの頻度に救われていたのだと思います。
また、作品が出来上がるまでに、形を作って、素焼きをして、釉薬をかけて、また焼いて…という工程がありますが、そのリズムもとてもよかったようです。
――I>
あの登り窯が寛次郎さんと京都、この五条坂の土地を結び付けていたんですね。
――S>
河井寛次郎は昭和41年に亡くなるんですが、幸いなことにまだ当時は窯が使えていました。
繰り返しになりますが、京都では大きな登り窯に陶工たちが皆で陶器を持ち寄ってまとめて焼いて、それを各々が持ち帰る、というシステムになっていました。
私の父(河井博次)も、寛次郎の甥(河井武一)もあの登り窯を使っていましたし、もちろん外部の方々も使っておられました。陶器屋としての日常風景が、河井が亡くなった後も、普通に続いていたんです。
それが昭和46年に京都市の規制で、街中で窯を使うことができなくなりました。
登り窯の火が消えた。すると作家たちは散らばりますよね。郊外にいって薪の窯をやったり、あとはガスや灯油・電気の個人窯を使うようになりました。
これがやはり、大きな折り返し地点だったと思います。
もともと、五条通はうち(記念館)の前の通りくらいの道幅だったんですよ。前の通りも、若宮八幡さん(陶器神社)の方にまで、ずっと家が続いていたようです。それが戦争のときに道幅が広げられて。さらに後になって五条通に山科へのバイパスができて、完全にエリアが分断されてしまったんですよね。
窯に火が入るということは、窯の元に皆の力が集約されることだと思います。
陶工たちは窯に作品を焼くために入れに行く。陶工の他にも、京都の焼き物は分業制でしたので、窯を炊く人とか、陶器にまつわる色々な仕事の人たちが、窯を中心に集合していたんです。
それが、窯がストップしたことで集まることがなくなって、ばらばらになってしまった。そして道路で分断されて…そこからではないでしょうか。この辺の活気がダウンしてしまったのは…
やはりあの登り窯の果たしていた役割は、この地域にとってとても大きかったと思います。
――I>
登り窯の火は、陶器や産業だけでなく、人のつながりも生み出していたんですね。もし登り窯の火が消えてしまうところを寛次郎さんが見ていらっしゃったら…
――S>
ある意味、その憂き目に遭わずに済んでよかったなぁと思うところはあります。
とても残念がったでしょうから…。
憂き目に遭ったのは私の父・河井博次でした。たまたま信楽に土地があったので、そちらに移ったのですが…結局あまり面白くなかったみたいで。やはり登り窯で作っていたときの迫力や面白さとは全然違っていたようですね。
――I>
でも、現在も河井家の方は陶器作りを続けていらっしゃいますね。
――S>
はい。今はその次の代…姉の主人と、その息子…私の甥が信楽の土地で続けています。
でも甥は自分で小さいですが登り窯を築いたんですよ。やはり登り窯で焼いてみたい、と思っていたようですね。
陶器の町としての昔からの姿が、記念館の周りには残されている。
――I>
最近ではTVや雑誌にも紹介されていらっしゃいますし、河井寛次郎記念館は五条坂エリアを代表する施設だと思うのですが、記念館の役割というものを感じていらっしゃることはおありですか?
――S>
確かに、この辺は古くからの陶器の産地なのに、陶器専門の美術館ってあまりないんですよね。その点、陶器を見ることができる施設としてはうちも役割があるかなと思います。ただ、当館の場合は京都の出身ではない河井寛次郎の作品に限定されてしまいますが…
当館のお客様は陶器好きの人もいらっしゃるんですが、そうでない人もよくいらっしゃるんですよね。建築関係だったり、単なる観光客であったり…東山界隈や清水寺も近いのでその一環でいらっしゃるかたも多いです。
でもおかげさまで三十八年間、来館者の無い日はなく続けてこられましたし、リピーターの方も多く、皆さんに本当に大事にして頂いているなと感じています。
――I>
このあたりは陶器の町で昔から作家・職人さんが物を作って暮らしていたんだ、ということは知識としてはわかっているつもりでも、なかなか実感がわかない部分もあると思います。河井寛次郎記念館はその姿を今に伝えてくれている存在かなと思います。
――S>
ありがとうございます。
そうですね、窯場は昔と同じ形で残してあって、仕事場を含め、河井の暮らしぶりをそのまま見て頂いていますので…。
記念館のある界隈は案外、昔と大きくは変わってはいないと思うんです。
昔からこの辺に住んでいる陶器関係の人は、まだここに残って暮らしていらっしゃる方も多いんですよ。周辺は昔から続いている陶器を扱っているお店が今もありますし、陶器関係の仕事をされている方もいらっしゃいますし。はげしい人の入れ替わりはまだないですね。帰ってくると、やはりほっとするなぁ、という感じがします。昔から残っているものもちゃんとあるんですよね。
――I>
他の伝統産業の発達した場所ではどんどん人が出て行ってしまったりしていますけれど、そこに比べると、五条エリアはまだ昔からのもの・人が残っている地域なんでしょうね。変わっていくことは仕方の無いことでも、残していけるものは残っていってもらいたいものですね。
「河井寛次郎の家」としてのスタンスを守りつつ、新しい試みも考えていきたい。
――I>
今後の五条・ちゃわん坂エリアに対して、こうなってほしい、ということはおありですか。
――S>
私は作り手ではないので、スタンスは少し異なるとは思うのですが…
やはり、昔に比べると五条通は人が少なくなったなと思います。
もう少し人がこの通りに来てくれはるといいと思うのですが…お彼岸やお盆の時期はお墓参りの人がものすごくいらっしゃるんですけど、そのとき以外は…(苦笑)
あと、五条通は交通の便がものすごく悪いんですよ。アクセスが悪い。
五条坂と聞くと今は東大路より上(東)の方しかイメージされないことが多いんですが、本来その下(西)の五条通の方も「五条坂」なんですよね。道路で地域が分断されてしまったせいで人の流れも清水坂の上の方に行ってしまっていて。五条通にももっと人が来るようになれば、と思いますね。
――I>
実際に街を歩くと新しい発見もあったりしますしね。この辺りは少し路地に入れば陶片を壁にあしらった家があったり、町家があったり、いいお店があったり…
――S>
外国人向けだと思いますが、バックパッカーみたいな方が京都駅からこの五条坂界隈まで歩く、なんてツアーもあって人気ですよ。そういうもので人を呼んでみるのも、面白いのではないかな、と思います。エリアとしてはよい観光地のはずですからね。
――I>
河井寛次郎記念館として、こういうことをしてみたい、ということはおありですか?
――S>
現在も私は個人的に京町家友の会という組織に入らせて頂いてますし、それに関する催しには記念館も新しい試みで参加させて頂いていることもあります。
「河井寛次郎の家である」ということを大前提として、これから何ができるか…ということについては、検討の余地があると思っています。
河井寛次郎自身はとてもオープンな人でしたので、皆のためになることは、河井も喜ぶと思います。これからも記念館のスタンスは守りつつ、世のため人のためになることを少しずつ、ゆっくりとやっていきたいと思っています。